『気まま感想』「金色の死」の芸術について

 今日の授業であげた『金色の死』。

 小説の表現と仕組みが面白い、一気に読了。

 この文章は「私」と岡村という二人の芸術への道の物語で、今日はこの作品について、少々感想を述べたいと思う。

 


 文章冒頭で「私」と岡村二人が「偉大なる芸術家」になりたかったが、このあと二人の芸術の道は分岐。

 私は「偉大」に、岡村は「芸術家」を目指した。

 


 「私」の中の「芸術」は世の中の評価に関わるもの、王道的な文学の道を進んだ

→評判:インスピレーションが止まらず

→下火:生活のために好まないものを書かなければいけなくなり、妥協し、つまらないと思ってしまったのである。

 「私」という語り手は名誉や他人と比べることについてかなり言及しているため、キャラクターの性格として、かなりちやほやされたい欲、優越感を欲するところが読み取れる。すなわち、「私」の芸術は先行の芸術で、読者の上で成り立っている芸術である。

 


 しかし、岡村は自分のために芸術を作った。

 歴史や数学を好まず、芸術や文学、語学だけを好んで、結果を出した。

 彼自身も芸術そのものを表現しようとしている(衣装、化粧、体育など)彼自身の「一目で綺麗だと思える」芸術に近づいていたのである。

→芸術ができた:誰にも見せたくない。

→芸術を維持できなくなった:自滅を選ぶ、自分の死すらも芸術にする(タバコや酒、自分の死期がわかっているような振る舞い、毎日の衣装チェンジ)

彼が自分の芸術を最初から最後まで追求したのである。時間を横断したという面白い発想が先生に提示されて、まさに岡村はこのような芸術を求めていたのではないかと思った。

 


 授業ではやはりこの二人は違う芸術観を持つという観点があったが、果たしてそうなのだろうか。

 「私」は岡村のわからないフランス語や舞に美を感じて、彼の美しい顔を見て劣等感を感じていた。最後に一番すごい芸術を描写することすらできなくなった。

 すなわち、「私」は岡村芸術を美として認識することができ、感性が通じ合っているということである。それなら果たしてこれは違う芸術観なのか、ただ二人の欲望が違うだけかもしれないと思った。

 私の欲望は芸術家として名を残したいこと、評価されたいこと。岡村の欲望は自分の芸術を貫き通すこと。こう考えていくといろいろ明確になってくると思う。二人の欲望は同じ「偉大なる芸術家」でありながら、まったく違っていたのであった。

 自分の感想だと、人はできないものに惹かれるから、岡村がすごい、素晴らしいと考えてしまうだろうが、それが逆にその時代や現在の創作者はみんなほぼ下火の「私」であることを反映するのかもしれない。しかし、読者をなくすと創作自体を評価、確かめ、改善することができないので、岡村のこのような独善的な「芸術」は果たして芸術だろうかというところも考えるところである。

 


 授業ではいろいろな考えを挙げられて、却下された。創作者としては、読者のいろんな解釈があったほうが本文が肉付き、深みが出ると思うんだけど、今の私は研究者の立場だから、「真」を考察するのがポイント。うん…やはり谷崎潤一郎のその時代の芸術観を考察する必要があるかもしれない。

 最後に、考察してみたい点を記す。以前の作家の文章はどう書いていたのだろう。やはりシナリオの教科書とか見るのかな???もし知っている方がいたら教えてください。